お金に関する知識というのは、生きていく上で必要不可欠です。資本主義と自由市場を前提とする世界で生きていく以上、お金と無縁でいることはできません。今回は資本主義と自由市場を取り巻く基本的な知識を幾つか説明したいと思います。
経済学ってどんな学問?
経済という言葉は日本では明治時代に作られた言葉です。単語の語源は中国の「経世済民」という言葉とされています。経世済民とは簡単に言えば世の中を治めて民を救う、ということです。
現代における経済学とは、お金儲けのためだけの学問ではありません。たしかに経済学にはお金儲けのための一面もあるのですが、それはあくまでおまけのようなものであり、本来の狙いは別のところにあります。
すなわち、世の中に限りある資源をどのように分配するのが最も適切か、ということです。
ここで言う資源とは石油や石炭、天然ガスなどの狭義の「資源」だけではありません。それらを元にして作られた財やサービス、あるいはお金、時間など、有限である(希少性がある)ものはすべてが資源です。
もし資源が無限にあるのでしたら、経済学という学問は意味を持たなくなります。いくら無駄遣いしてもいいのだから、最適な配分など存在しないからです。
しかし、実際には世の中の資源は有限です。だからこそ、限られた資源を無駄にしないように適切な配分を考える必要があるのです。
最適な配分とは何か?
さて、問題は資源をどうやって配分すれば、資源を最適に配分したといえるのか、ということです。具体的な例をもとに考えてみましょう。
AさんとBさんの2人がいて、りんごが6つあります。このりんごという資源を適切に配分するにはどうすればいいのでしょうか。深く考えなければ、2人にそれぞれ3つずつ配るのが最適にも思えますが、実はそれが最適解であるとは断言できません。
もしAさんはりんごが大好きでたくさん食べたい、Bさんはりんごが大嫌いで絶対に食べたくないと考えていたらどうなるでしょうか。この場合はAさんがりんごを6つ総取りすることが最も最適な資源配分といえるかもしれません。
自由市場は最適な配分を達成する?
18世紀の経済学者であるアダム・スミスは、自由市場(個々の人間や企業が政府からの干渉を受けずに、自由に価格・自由な取引量を調整できる市場)のもとでは、資源配分は常に最適になると説いています。このような基本理念をもとに生み出されたのが古典派経済学で、後に新古典派経済学に発展します。
例えば、市場に企業Aと企業Bという2つの供給者がいて、それぞれりんごを100円、200円で売っているとします。りんごの品質は全く同じです。
このような状況下で消費者はどちらの企業からりんごを買おうとするでしょうか。当然、Aの企業からですよね。こっちのほうが安いぶんお金を失う量が少なく、他の財の購入に当てられるお金が増えるからです。
このような環境下で企業Bが、品質は変えないまま自社のりんごを売るためにはどうすればいいでしょうか。値段を下げるしかないですよね。しかし、値段が下げればそれだけ企業Bの利益は少なくなります。
そのような中で利益を増やすためには、設備や労働者の獲得、技能向上などに投資して、生産コストを下げる必要があります。
生産コストが下がれば、りんごを100円で売っても利益が出るようになります。技術革新が進んで企業が儲かり、なおかつ消費者が安く商品を買えるというのは、理想的な状態です。
ものが余ったり足りなくなったりしたらどうなる?
仮に企業Aと企業B、どちらも100円でりんごを売るようになったとしましょう。この場合、消費者はどちらからりんごを買っても全く同じということになります。しかし、いくらりんごが安くなったからといって、消費者が欲しがらなければ意味がありません。
仮に消費者があまりりんごを欲しくなくなったら、100円という価格ではりんごは売れなくなってしまいます。つまり、需要が少なく、供給が多くなってしまうのです。
このような環境下では、企業はりんごを値下げせざるを得ません。値下げすればそれだけ欲しがる人が増えるので需要が増え、そんな安い価格では売れないと思った企業がりんごを売るのを辞めるので供給は減り、やがて需要と供給は一致し、そこで価格が安定します。
りんごの需要が大きくなった場合は、これとは逆に価格が高いところで安定します。つまり、需要と供給にギャップが生まれたとしても、すぐに価格を通じてそれが調整され、需要=供給になる、というわけです。
生産物が過不足なく、欲しがっている人全員に行き渡って、なおかつ余りもない、と言うのは理想的な状態です。
なぜ過不足なく配分できるのが理想的な状態なのか?
さて、例えばいろいろな要因の結果、りんごの価格が120円で安定したとしましょう。この場合、りんごを買うのは誰でしょうか。
いうまでもなく、120円出してもりんごが食べたいと思っている人たちですよね。一方、100円までならば買ってもいいけど、120円ならばいらないという人はりんごを買いません。
120円出してもりんごを食べたいと思っている人と、100円までしか出したくないという人では、前者のほうがりんごをほしい度合いが強いわけです。りんごがほしいと強く思っていれば、それだけたくさんのお金を出すはずですからね。
つまり、お金を出す量がそのまま欲望の強さのバロメーターとなるわけです。このような環境下では、前者に限られた資源であるりんごを優先的に配分していくのが最も理想的です。後者にりんごを配っても前者の強い欲望は満たされず、後者の弱い欲望しか満たされないからです。
しかし、今後技術革新によって安く大量にりんごを提供できる生産体制が整い、1個80円で売られるようになったら、後者の人もりんごを買うようになるはずです。
安く大量に生産できるものは稀少性が低いので、それほど強く欲しがっていない人にまで配分したほうがより良いからです。
実際には自由市場というものは成り立たない?
さて、これまでの話はすべて自由市場が成り立つという前提をもとに話していますが、実際にはこのような市場は成り立たないとする経済学者が多いです。
20世紀に活躍した経済学者のケインズは、自由市場や自由競争の有効性を認めた一方で、自由市場を完全に成立させるのは難しい、としています。
自由市場の前提は全ての供給者とすべての消費者が一同に介し、消費者はすべての企業の情報を見極めた上で最適な場所で購入する、と言うものです。しかし、実際にこんなことができるのでしょうか。
現実でりんごを売っている企業が2社しかないということはまずありえません。全国チェーンの大型スーパーも、特定の地方にしか無いローカルスーパーも、あるいは青果店、コンビニ、農家などもりんごを販売していることがあります。
それは日本に限った話ではなく、海外のスーパーもりんごを売っています。このような無数の供給者の情報を消費者が完璧に把握することは、どう考えても不可能です。
せいぜい地元のスーパーや青果店2つか3つを回って、その中で一番安いところで買う、というのが限界でしょう。
それに、市場には規制や法律があります。自由市場では、個人や企業が何をいくらでどれだけ売り買いしようが全くの自由ですが、実際の市場ではそうもいきません。
例えば人を雇用する(労働力を買う)労働市場においては最低賃金以上の賃金を払わなければならないということになっていますし、特定の事業に参入するためには免許や資格が必要になります。
自由市場は失敗する?
また、ケインズは自由市場と言えども、資源配分が最適にならないこともある、とも言っています。例えば労働市場。自由市場で需要と供給が一致するのならば、たとえ一時的に失業や人余りが発生してもすぐに賃金の上昇・加工によって調整されるはずです。
しかし、実際にはそれほど価格調整がうまくいかない方のケースが多いです。
例えば失業が生まれている場合、賃金を下げてその分雇う人を多くするのが解決法ですが、失業しなかった人にとって失業した人はどうでもいい人なので賃金引き下げに反対するでしょう。
逆に人手が足りない場合には賃金を上昇させて人手を確保する必要があるのですが、経営者は反対するでしょう。いろいろな人の思惑が絡み合う市場では価格調整がうまく行かないことがあり、そのような役割は政府が果たすべきであるとするのがケインズの基本的な考え方です。
ケインズの考え方をさらに増進させたものが社会民主主義です。議会制度の中で福祉を増進させるという考え方で、様々な事業の国営化にも肯定的です。共産主義の父であるマルクスの影響を受けていますが、暴力革命は否定します。
まとめると、自由主義市場に信頼を置き、自由にやらせればいい(政府にはなるべく介入させない)と強く考える順に新古典派経済学、ケインズ経済学、社会民主主義、そして共産主義となります。
もっと身近なお金の知識
ここまでは大まかな経済学の考え方を解説してきましたが、ここからはもうちょっと生活に即したお金の知識を紹介していきます。
お金と無縁で居ることはできない
資本主義社会を否定する人がいます。もちろん、資本主義社会を否定するのも、しないのも個人の勝手であり、それを否定する気はありませんし、否定する権利もありません。
しかし、資本主義社会を否定する以上は、なにか新しい、資本主義よりも優れた仕組みを考える必要があります。
過去には前述のマルクスがその難題に挑戦し、資本主義社会はやがて社会主義社会へ、そして共産主義社会へと進展していくと結論を出したのですが、現実には東欧諸国やロシアなどの社会主義国家が資本主義国家に展望するという予想とまるで正反対のことが起きています。
少なくとも今から数年のうちに、日本国内で資本主義社会が崩れるということはないでしょう。議会を通じて変えるにせよ、革命で変えるにせよ、社会の変革のためには多数の賛同者が必要になりますが、資本主義否定派の人たちがそこまで大きくなっているようには、私には思えません。
資本主義社会の歪みに気づいている人はもっと多いのでしょうが、殆どの人が資本主義の枠組み内で社会をより良くしようとするにとどまっています。無意識か、意識的なのかはわかりませんが、多くの人は資本主義がまだ他の制度よりはマシなものである、と思っているのかもしれません。
私も物々交換のような原始社会や共産党独裁体制による共産主義よりは、今のほうがずっとマシだと考えています。
仮に資本主義社会に変わるより優れた仕組みが将来開発されるとしても、それまでの期間は資本主義社会で暮らすことになります。少なくとも現状においては資本主義を受け入れざるを得ず、したがってお金とも無縁ではいられないのです。
お金で必ず幸せにはなれないが、確率は上がる
お金を持っていても必ずしも幸せになれるわけではありませんし、逆にお金がなかったら絶対に幸せになれないわけでもありません。それは事実です。しかし、お金があるほど幸せになりやすいというのもまた事実です。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン教授によれば、所得と幸福度は概ね7万5000ドルまでは比例する関係にあり、その後は所得がいくら増えても幸福度は横ばいのまま、という傾向があるそうです。
これを見て「お金があるからと言って必ずしも幸せになるとは限らない!」などとはしゃぐ人もいますが、それはいささか近視眼的過ぎるものの見方です。
アメリカ人の殆どは年収7万5000ドル以下です。それ以上に稼いでいるアメリカ人はほとんどいません。年収7万5000ドル以下に含まれている人々は、その範囲の中で収入が多いほど幸せを感じているわけです。一部の高額所得者を除けば、所得と幸福度は比例するのです。
ちなみに、なぜこのような結果にが出るのかについては諸説ありますが、所得が少ないうちは増えれば増えるほど生活が安定し、生活水準も上がるので幸福感が増すが、7万5000ドルを超えると生活水準の伸びが鈍りやすくなり、またたくさん稼ぐために何か別のものを犠牲にしなければならないためとする説が有力です。
お金は選択肢を増やし、自由を得るための道具
お金を持っていると、様々なシーンで沢山の選択肢を選ぶことができます。例えばお腹が空いている時に3000円のランチを提供しているレストランにも入れますし、800円のラーメン屋にも入れますし、400円の立ち食いそば屋にも入れます。しかし、お金をあまり持っていないと400円の立ち食いそば屋にしか入れません。
お金を持っているのにあえて立ち食いそば屋に入るのと、お金がないから仕方なく立ち食いそば屋に入るのは似て非なるものです。
前者は「数ある選択肢の中から自分の意思で選んだ」という認識を持てるため満足感を得られますが、後者は「他に選べる選択肢がなかったので仕方なく選んだ」という認識になるため、不満感が残ります。
むろん、あまりも選択肢が多すぎると迷ってしまい、適切な判断を下せない可能性もありますが、それ以上に自分で選択できないという苦痛は大きいものです。お金は人間を自由に近づけてくれる道具なのです。
お金で買えない数少ないものが「健康」
世の中の大抵のものはお金で買えますが、中にはそうでないものもあります。お金で買えない(ことがある)ものの中でも代表格なのが「健康」でしょう。もちろん、お金があればそれだけ良い医療を受けられることは確かですが、末期がんはいくらお金を積んでも直せません。
そもそも健康でなければ何にお金を使っても楽しくないですし、幸福感も得られません。それに健康がなくなってし舞う10日値を十分に稼ぐこともできなくなってしまします。
体の健康はもちろん、こころの健康にも気を使うことが、幸福と自由を手に入れる手段であるといえます。
日本の福祉制度は貧弱ではない
日本の福祉制度批判のためにヨーロッパを持ち出す人がいますが、それは必ずしも正しい態度であるとはいえません。現在の日本も福祉制度が整っているからです。例えば健康保険1枚でどこの医者にも自由にかかれ、なおかつ原則3割負担で医療を受けられるのは日本ぐらいです。
例えば米国は民間保険中心で低所得者を中心に無保険者が少なくありませんし、イギリスはNHSという施設で原則無料で医療を受けられますが、民間病院は全額自己負担(保険の負担はできる)ですし、自分で病院を選ぶこともできません。
必然的にNHSにはお金のない人が集まり、待ち時間は長くなり、提供される医療の質は低くなります。
フランスもかかりつけ医の許可なく他の医師を受信することは制限されています。それと比べれば、誰でも基本的に待ち時間が同じで窓口負担が原則3割、なおかつ生活保護受給者は無料になっている日本の制度は十分平等に近いのではないでしょうか。
そもそも、医療費無料、と言うのはあまり意味のない言葉です。高度な知識をもとに提供される医療が無料で受けられるわけはありません。医療関係者が無料で働いてくれるはずはありません。誰かがどこかでお金を払っているのです。
その財源は税金と保険料です。つまり、税金や保険料をたくさん払っている人、要するに所得の高い個人や利益を上げている法人がそれを負担しているのです。
就業中に怪我をしたら労災保険がおりますし、失業したら失業保険がおりますし、国民全員が入れる国民年金もありますし、寡婦・家父家庭には児童扶養手当がありますが、これらも税金や保険料が財源です。
福祉とはすなわち高所得者が低所得者にお金を流すシステムなのです。
なぜ日本の福祉は不十分と言われるのか?
理由を考え出せばきりがありません。一つに断言できるものではなく、以下のような要因が複雑に絡み合っているものと思われます。
- 隣の芝は青く見える(他所の国のほうが恵まれているようにみえる)から
- 国民の政府に対する要求は限りなく増え、しかも税負担はしたがらないから
- いろいろな福祉制度があることが十分に知られていないから
個人的に一番重大視しているのは最後の「いろいろな福祉制度があることが十分に知られていないから」です。どんな制度も知られていなければ利用されないので無いのと同じです。
政府や自治体が積極的に情報を提供することはもちろん、われわれも積極的に知ろうとすべきです。(参考:生活保護の条件とは?借金が合っても大丈夫?)
お金の価値は一定ではない
忘れがちなことですが、お金の価値というのは常に変動しています。明治時代の100円と今の100円では買えるものが全く違いますし(明示30年ごろの警察官の初任給は20円ぐらいだったそうです)、今の100円と50年後の100円もおそらく価値は変わっているでしょう。
そして、長期的に見た場合、お金の価値は下がる(物価が上がる)傾向があります。
つまり、お金を唯持っているだけだと、実質的なお金の領はどんどん減ってしまうわけです。
当サイトである程度のリスクを取ってでも資産運用を積極的に進めているのも、(参考:あなたはどれに投資する?世の中の全投資と借金の仕組み)、物価上昇による実質的な資産の減少を防ぐためです。
投資は長期的に行えば効率的に資産を増やせる
投資の世界で重要な考え方の一つに、複利というものがあります。複利とは簡単に言えば、利息に利息がつくことです。例えば、100万円を年間利息10%で運用した場合、1年目には元本の100万円に利息が10万円付くので110万円になります。
2年目には、元本の100万円に利息10万円が、1年目の利息10万円に利息1万円が付くので、100万+10万+10万+1万=121万円になります。
3年目には元本100万円に利息10万円が、1年目の利息10万円に利息1万円が、2年目の利息11万円に利息11000円がつくので、100万円+10万円+10万円+1万円+11万円+11000円=133万1000円となります。
1年目は10万円しかお金が増えていませんが、2年目は11万円、3年目は12万1000円と、毎年得られる利息が増えていきます。
お金を長期間運用すると、繰り返し利息に利息がくため、お金を加速度的に増やしていくことができるのでそう。当サイトで長期的にお金を運用することを進めているのはそのためです。
今の仕事は将来なくなる可能性がある
投資は資産を増やすためにも絶対に必要ですが、一方で仕事による給与収入も大切です。しかし、現在の仕事が将来もずっと存在し続けるとは限りません。
例えば、かつては電話は一度交換手につながるというシステムだったため、電話交換手という職業があったのですが、時代とともになくなってしまいました。
あなたの今の仕事も、10年後、いや1年後に同じ仕事があり続けるという保証はどこにもありません。技術革新により自動化されそうな仕事は特に危険です。安定的な収入を得られるような、機械に取って代わられにくい仕事を得ることが大切です。
もっとお金について知りたい方へ
お金に関する知識は山ほどあり、ここで紹介したのは氷山の一角にすぎません。更に知識を得たい方は、当サイトの記事を大読みいただくか、書籍を読んで勉強することをおすすめします。最後に当サイトのおすすめへのリンクを張っておきますので参考にして下さい。
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