お金を稼ぐということがそのまま社会貢献になるわけ

今回は、お金を稼ぐのが良いことである、社会貢献になる理由をご説明します。お金を稼ぐことは悪いことだと思っている方は必見です。

人は自分のために人を支える

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まず、前提として、現代社会では人間が1人で生きていくことはできません。家を建てる、食べ物を作る、飲み水を作る、服を作る、ベッドを作る、病気の診断や治療ができる……。

こうしたことが全て1人で出来る人はお金などなくても困らないでしょうが、そんなことが出来る人は1人もいないでしょう。

つまり、我々は望む望まないにかかわらず、誰かと支え合って生きていくことを強いられるわけです。どんなに一匹狼を気取っている人でも、病気になったら医療費の7割を公費(誰かの払った税金)に負担してもらって治療を受けます。

なんだか小学校の先生が話すような青臭い話に聞こえるかもしれませんが、人間は別にお互いが大切だから、お互いを慈しんでいるから支え合っているわけではありません。

1人で生きようとするよりも、支え合って生きようとするほうが都合がいいから支え合って生きているだけです。

支え合って生きていくためにはお金が必要

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ところで、支え合っていくとは、言い方を変えれば他人のために何らかの仕事をする、ということです。しかし、人のために仕事をしても、仕事をしてもらった側の方の人がその恩を仕事をした人に返すとは限りません。

そうなったら、仕事をしたほうは労力の無駄遣いになってしまいます。これでは人のために仕事をする気がなくなってしまいます。そうなると誰もが仕事をしなくなり、必然的に世の中に必要な財やサービスは全く供給されなくなり、我々の生活水準は下がってしまいます。

そこで必要なのがお金です。何かの仕事をしてお金を受け取れば、仕事をした人はそのお金で別の人に何か仕事をしてもらうことができます。つまり、仕事をした分だけ確実に誰かに仕事をしてもらえるわけです。

仕事をしてもらえる保証があれば、人々はたくさん仕事をしてもらうためにたくさんの仕事をします。つまり、お金という媒体には仕事のモチベーションを維持し、世の中に供給される財やサービスの量と質を増やす機能があるのです。

よく「大切なのはお金ではない、心の豊かさが大切だ」という、こちらが聞いていて恥ずかしくなるような主張をする人がいますが(小中学生ならまだしも、大人になってからこういうことを言う人がいるのだから驚きです)、その主張は全く的外れと言わざるを得ません。

お金がなければ殆どの人は真面目に働く気をなくし、生活水準は下がり、豊かさからはどんどん離れていきます。生活水準が下がれば、大抵の人は心が荒みます。このような主張をする人は、せめて縄文人レベルの生活を1年間続けてから主張してほしいものです。

お金があればものの交換がスムーズにできる

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さきほど縄文人に関する話に触れましたが、実は縄文時代にはまだ我々が想像する「お金」と言うものは存在していませんでした。その時代、人は物と物を交換して生きていたのです。

これがいわゆる「物々交換」ですが、物々交換というのは、非常に非効率的です。自分の欲しいものを持っていて、なおかつ自分が持っているものを欲しがっている人を見つけないと成立しないからです。

一方、お金という媒体があれば、とりあえず自分の持っているものをお金に変えて、その後自分の欲しいものを持っている人にお金を渡して売ってもらうという事が可能になりるため、物の流通が格段にスムーズになります。

ちなみに、現在お金や財産のことを表す漢字には「財」「貯」「貨」などがありますが、これらの感じにはいずれも「貝」が含まれています。古代中国では貝殻がお金として使われていたからです。

しかし、貝殻をお金代わりに使おうとすると色々と不都合な面が多かった(壊れやすい、自然物なので供給量が安定しないなど)ため、金や銀を人工的に加工したお金、貨幣が使われるようになりました。

日本で初めて公的に鋳造されたお金は「和同開珎(わどうかいほう・わどうかいちん)」と言われてきましたが、現在はその前に富本銭(ふほんせん)というお金が鋳造されていたことが明らかになっています。富本銭が初めて作られたのは7世紀後半とされています。

しかし、それまでお金というものに全く馴染んでいなかった当時の人々にとって富本銭は非常に理解しづらく、使いづらいものであったため、一部の都市以外ではなかなか普及しませんでした。

それでも10世紀半ばぐらいまではたびたび銅線が鋳造されていたのですが、次第に銅の採掘量が減ってきたため、品質が悪化。人々のお金に対する信頼は低下し、使われることはなくなってしまいました。

そして958年を最後に、日本では公的なお金が鋳造されなくなってしまいました。その後、豊臣秀吉の時代までは、再び物々交換がメインの時代になります(一部では中国から輸入したお金が使われていたようです)。

文明が進歩するほど、お金の持つ意味は大きくなる

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お金が日本で初めて流通した7世紀後半は、言うまでもなく現代よりも文明水準が遥かに劣っています。文明水準が劣っているということは、高度な技術を必要とする財がほとんど生産されておらず、供給される材の種類が少ないということです。

7世紀後半に該当する飛鳥時代の主な産業は農業で、多くの人が農業に従事していました。逆に、農業以外の産業はあまり活発ではありませんでした。

となれば、お金が持つ意味は必然的に小さくなります。殆どの人が、生活に必要な財を自分で作っていて、他人から何かを買う必要がなかったからです。

しかし、人間には生活をもっと良くしたいという欲望があります。欲望があれば、文明は進歩します。以前は作れなかった財やサービスが作れるようになり、市場に供給される財やサービスの種類は増え、また品質も高まっていきます。

そうなると、必然的に「欲しいけれど自分では作れない財やサービス」が多くなります。するとお金の持つ意味が必然的に多くなります。自分では作れないけれど、なんとかして手に入れたい財やサービスが増えるからです。

文明が発達すると分業化が進み、働きやすくなる

文明が発達すればするほど、産業の種類が増えます。産業の種類が増えれば増えるほど、分業化が進みます。1人ですべての産業を少しずつやろうとするよりも、それぞれ個人が自分の得意な産業に特化した方が生産効率が上がるからです。

また、分業化は働きやすい体制を自然と整えます。農業しか仕事がない時代は、農業が苦手な人にとっては非常に生きづらいものでしょう。しかし、農業と工業とサービス業があれば、農業が苦手でも比較的得意な工業やサービス業で活躍できます。

生活水準が向上しても仕事は減らない?

「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」……という句を残したのは石川啄木です。彼がこの句を発表したのは1910年のことです。それから約100年が経ちましたが、働けど働けど暮らしが楽にならない、と言うのは現代にも通じるように思えます。

しかし、よくよく考えてみれば、100年前の暮らしよりは今の暮らしのほうが明らかに生活水準が高いはずです。

面倒な洗濯は洗濯機がやってくれますし、わざわざ歩かなくても車や電車で移動ができます(車も電車も100年前にはそれほど一般的なものではありませんでした)。

部屋の室温が高かったり低かったりすればエアコンで温度調整ができますし、お腹が空いたらレストランで食事ができます。

コンビニに行けば食品から日用雑貨まで一通り買えますし、病院に行けば多くの病気を治すことができます。

100年前の日本人が今の日本人の生活を見たら、あまりのレベルの高さに愕然とし、次いで「こんな恵まれた生活をしながら楽にならないとはどういうことか」と怒るかもしれません。

しかし、生活水準が上がっても楽になる(仕事をしなくて良くなる)かというと、必ずしもそうとはいえません。それどころか、逆に生活水準が上がることによって仕事が増える可能性も否定出来ないのです。

例えば、100年前と今では、食品の衛生管理に関する基準が全く違います。当然、今のほうが基準が厳しく、それゆえに我々は安心してレストランで食事ができます。

しかし、基準がそれだけ厳しくなれば、当然その分だけチェックする人の仕事も増えます。人々の生活水準が高くなればなるほど、人々が企業に対して求めるサービスの品質は高くなり、それゆえに仕事が増えていく……というわけです。

我々の高い生活水準は、より多くの仕事によって支えられているわけです。高い生活水準を求めるのをやめれば仕事が減って楽になるかもしれませんが、現代の生活水準に慣れきった現代人がそんなことをするのは不可能に近いでしょう。

コンビニも大型スーパーもなく、医療水準も低い世の中に耐えられる人はまずいないはずです。

世の中の仕事を機械化してしまえば仕事が減って楽ができるのではないか、と思われるかもしれませんが、この意見にも疑問が残ります。

実はこのような言説は産業革命が始まった頃から繰り返し叫ばれているのですが、みなさんもお気付きの通り、現在に至るまで仕事はなくなるどころかほとんど減ってすらいません。一体なぜでしょうか。

まず、機械というのは自分ひとりで動いているわけではありません。機械を動かす人、というのが必ず必要になります。それだけでなく、機械が正常に動いているか確認する人や、機械が作った製品の品質を確認する人も必要になります。

もし機械が意思を持ち、人間に操作されなくても物を生産できるようになったとしても、その機械が本当に人間の思う通りに動いているかを確認する人が必要になるはずです。

それでも、機械が自動化して作業工程を省略すれば、必要な人員の絶対数は減るかもしれません。しかし、その減った人たちは、新製品の開発や新しい事業への参入に器用される可能性が高いです。

こうしたことは機械にはまだできないことだからです。機械にできることは機械に任せて、人間は人間にしかできないことをやって生産性をアップさせよう、という考え方ですね。

こうした現象は、今まで機械に簡単に取って代わられるような仕事しかしてこなかった人にはピンチと言えますが、それは仕方のないことです。一生需要が保証されている仕事などありません。

働き始めてから引退するまでずっと一つの業種で行き続けることが出来るというのは幻想に過ぎません。時代の流れとともに仕事を変えられる柔軟性のある人だけが、より世の中に多くの価値を提供し、その見返りとして多くの所得を得ることが出来るのです。

お金は信頼で成り立つ

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ところで、お金というのはそれ自体に価値があるわけではありません。1万円札自体は単なる紙きれですし、500円玉は丸い金属です。

もし国民の殆どが「こんなものは単なる紙と金属で、持っていても何の意味もない」と考えてしまえば、お金を誰も欲しがらなくなり、従って財やサービスの売買もできなくなります。

しかし、現実にはそのような自体は日本はもとより世界でもほとんど起こっていません。何故かと言うと、国民の殆どが、お金というものを持てば将来それを使って買物が出来ると信頼しているからです。

逆に言えば、そのような信頼がなくなった国や地域ではハイパーインフレという急激な物価高(お金の価値の暴落)減少が起こります。

物価が安定している(お金の価値が安定している)ということは、国民がお金を信頼しているという証なのです。お金を発行しているのは政府なので、間接的に政府を信頼しているとも言えます。

民間レベルで見た場合は、多くのお金を得ている人は、より多くの信頼が在る人だといえます。この人にお金を払っておけば、期待通りの仕事をしてもらえるだろうとお多くの人が考えるのでその人のもとにお金が集まってくるのです。

逆に信頼がない人は、この人にお金を払っても丁寧な仕事は期待できないだろうと思われてしまうので、お金を得ることができません。

お金と信頼の唯一の違いは取り戻しやすさ

前述の通り、信頼のある人のもとにはお金が集まります。信頼がお金を生み、お金が信頼を生むという正のスパイラルに入ることができれば、どんどんお金を稼げます。

となると、お金=信頼といってしまっても良いように思えますが、両者の間には一つ大きな違いがあります。それは取り戻しやすさです。

お金は失っても比較的簡単に取り戻せます。夜の中には一度借金まみれになってしまったものの再起を果たした人や企業がたくさんあります。

しかし、一度信頼を失ってしまうと、それを取り戻すのは容易ではありません。社会的問題を起こした企業が信頼を回復するのは容易ではありません。

逆に言えば、お金を失った人や企業がお金を取り戻せたのは、信頼を失っていなかったからである、ともいえます。

あの人(企業)は一度お金を失ってしまったけど、仕事が優秀であることには変わりないからあの人(企業)に任せてみよう、と考える人がたくさんいたために、立ち直れたのです。

お金は価値を創造した見返り

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ところで、お金を稼ぐためには一体どうすれば良いのでしょうか。一般的な答えは「働く」だと思いますが、実はこの回答は不十分です。より正当に近いのは「売上(もしくは粗利)を増やす」です。

働くということは言い換えれば、自身の労働力を労働市場で企業に売ることです。労働力を買いたいという企業が労働市場で労働者の労働力を買い、労働者はその労働力の見返りとしてお金をもらう、という関係性があるわけです。

所得は付加価値の合計である

ところで、みなさんはGDPという指標をご存知でしょうか。GDPとは簡単に言えば、国内で1年にどれだけ付加価値が想像されたかを示す数値です。付加価値とは、あるものの価値と、それを作るのに必要だったものの価値の差を示したものです。

例えば、あるメーカーが原材料を100円で仕入れて、それを加工した商品を300円で小売店に売却した場合、このメーカーの産んだ付加価値は200円です。その後、小売店が300円で仕入れた商品を800円で売った場合、小売店の産んだ付加価値は500円です。

このように、様々な企業、あるいは個人が産んだ付加価値を積み上げていき、それを合計したものがGDPです。GDPはその国の生産規模の大きさを表す数値として、様々な場面で利用されています。

また、GDPは国内で発生した支出、あるいは所得の総額と一致します。GDPを国民の人数で割ったものを一人あたりのGDPといいます。一人あたりのGDPはその国の平均的な人の生産、支出、あるいは所得の額を表しています。

一人あたりのGDPが大きい国ほど一人あたりの所得が大きいということです。

生産と支出と所得の合計が必ず一致する現象を三面等価と言います。三面等価の原則をそのまま適用すれば、生産と所得は一致します。つまり、世の中に沢山の付加価値を提供した人ほど、たくさんの所得が得られるわけです。

付加価値を提供するということは、世の中に対して貢献するのとなんらかわりありません。世の中に貢献すれば、それだけ見返りとして所得が得られるわけです。

逆に言えば、世の中に貢献していない人は、所得が得られません。何も作れない人にわざわざお金を上げたがる酔狂な人は通常いないからです。

人が生産した付加価値を正しく分配できない企業

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しかし、世の中には付加価値を世の中に提供できているのにもかかわらず十分な所得が得られない人がいます。その一方で、付加価値を全然提供していないのに、それ以上の所得をもらっている不届き者もいます。一体、なぜこのような減少が起こるのでしょうか。

理由は簡単で、企業がその人の生み出した付加価値を正しく分配できないからです。

多くの付加価値を埋めるということは、言い換えれば生産性が高いということです。短時間の間に多くの付加価値を産める人は、高く評価されるべきですし、それに見合った所得を得るべきです。

たくさん時間をかけても付加価値を産めない人は、低く評価されるべきですし、それに見合った所得を得るべきです。

しかし、実際には世の中ではそれと真逆の現象が起きています。いつまでもダラダラ残業をしているような生産性の低い人間が高く評価され、定時までに仕事を終えられる生産性の高い人が低く評価されるような企業も少なくありません。

これでは、付加価値を正しく配分できるわけがありません。

仮に世の中の人間が全員個人事業主になればこのような配分ミスは起こらないはずなのですが、会社員(正社員)という立場がこの上なく魅力的なものであることを考えると、まずそうはならないでしょう。企業の方が色々と効率がいいことも確かです。

実際、個人事業主の占める割合はどんどん小さくなっています。企業がそれだけ幅を利かせるようになれば、ますます配分ミスが増えていくことでしょう。その結果生産性の高い人は会社に嫌気が差して退職し、生産性の低い人だけが残るので、企業は衰退していきます。

労働者や政府の無責任と最低賃金

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しかし、このような配分ミスが起こるのを企業のせいにだけしてはいけません。労働者、あるいは政府にも責任があるのです。特に問題なのが最低賃金というルールです。

一見労働者を守るように見えるこのルールが、労働者の首を締めていると見る経済学者は少なくありません。

最低賃金というルールは、一体世の中にどのような効果をもたらすのでしょうか。最低賃金を定めるということは、労働力というサービスを売るときに、一定以下の価格で取引することを禁止する、ということです。つまりは価格統制です。

最低賃金が高くなればなるほど、労働力の価格は高くなります。従って、労働力に対する需要は減少し、供給は増加します。

仮に最低賃金というルールがなければ、労働力の価格が下落することによって労働力に対する需要が増加し、供給が減少するため、いつかは需要=供給となるのですが、最低賃金があるせいでいつまでたっても需給ギャップは解消されず、つねに需要<供給という状態が続きます。

つまり、労働力が売れ残る(仕事に就けない人が発生する)というわけです。

労働力が需要<供給という状態になれば、企業は労働者を十分に選別することができます。生産能力が高い人を雇い、低い人は雇わないという、好き嫌いができるようになるわけです。

その結果、生産能力が低い人、一般的には若い人や非熟練労働者、あるいは障がい者と言った人はどこにも雇われなくなってしまいます。つまり、最低賃金が高くなれば高くなるほど、生産能力の低いいわゆる社会的弱者は労働市場からあぶれてしまうわけです。

労働市場からあぶれてしまえば技術や能力を身につける機会を¥得ることができず、従って社会的弱者という立場からいつまでたっても脱することができません。最低賃金は社会の階層を固定させてしまうのです。

一方、最低賃金に守られている、つまり就職できている立場の人はどうなるでしょうか。労働力の需給ギャップがいつまでたっても解消できなければ、失業率は上がります。失業率が高くなっているということはそれだけ労働者の数が少なくなっているということです。

労働者の数が少なければ、どうしたって一人あたりの仕事量が増えます。一人あたりの仕事量が増えれば長時間労働になりやすく、違法労働がのさばるはずです。

しかし、最低賃金に守られている正社員という立場を手放したくないため辞めるに辞められないという状態が続き、それは時には過労死という形で現れることになります。

企業から見た最低賃金の厄介さ

一方、最低賃金というルールは、企業にとっても害があります。最低賃金というルールがなければ、現時点では生産性が低いけれど、伸びしろがありそうだという人を採用することができます。

それで能力が伸びてきたらその人の賃金を高くすればいいですし、能力が伸びなければ低い賃金のままで雇いつづければ良いのですから。

しかし、最低賃金というルールが有ると、そういったことができません。将来生産能力が伸びてくれるかどうかわからない人を雇うのは、企業にとっては大きなギャンブルです。それよりも現時点で生産能力を高い人を雇ったほうがどう考えても低リスクです。

企業はリスクを取ってでも人を雇うべき、という意見もあるかもしれませんが、企業には別に人を育てなければいけない義務はありません。企業の目的は利潤を増やすことです。

利潤を増やすかどうかがわからないような人間を好んで雇うのはよっぽどのお人好しか、簡単な未来予測ができないかのどちらかです。

このようなルールが有るおかげで企業は、今の生産性は低いけれど、将来は生産性が高くなるであろう優秀な若者を雇うことができず、それは企業にとっても損失となります。

最低賃金と一緒に解雇規制が語られることも多いですが、こちらも労働者や企業の損失となることが多いです。にも関わらず、多くの労働者は最低賃金をあげよ、と叫びます。自ら好んで首を絞めているわけです。

各国の政府もそれに呼応した政策を取ります。言うとおりにしないと、次の選挙で勝てないからです。

もちろん、最低賃金が労働者の雇用を守る一面がないわけではありません。ポール・クルーグマンなど、最低賃金を好意的に見る経済学者もいます。

しかし、多くの経済学者が最低賃金の害を批判しているのも確かです。例えばフリードリヒ・ハイエクは労働市場には原則として政府は介入せず、格差にはベーシックインカムで対応すべきと主張しています。

また、大竹文雄は最低賃金ではなく所得の再分配によって貧困に対応すべきとしています。

多くの付加価値を生むためには、低価格化する必要がある

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ちょっと話が脱線してしまいましたので、もとに戻します。生み出した付加価値が完全に正当に評価され、それが所得に直結するとなれば、これはもうたくさんの付加価値を生むしかありません。

では、一体どうすれば多くの付加価値を生むことが出来るのでしょうか。

多くの付加価値を生むためには、二通りの方法が考えられます。商品が一つ売れた際の付加価値を大きくするか、あるいは商品が触れる数を増やすかです。どちらにもそれなりの理がありますが、基本的には後者のほうが効率的です。

実際、世の中の資産かと呼ばれる人たちの多くは、商品の価格を下げる努力をすることによって財を成しています。マクドナルドなどがいい例ですね。

社会貢献に興味がない人へ

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中には「社会貢献とか全く興味ない。自分さえ稼げるようになれば人のことはどうでもいい」という方もいらっしゃるかもしれません。ひょっとすると、みんな大人だから人前ではそう言わないだけで、心の中ではそう思っている人のほうが多いのかもしれません。

そう思う事自体は、何もおかしいことではありません。人間なんだかんだ言っても自分が一番大切です。しかし、だからといってそのような態度を表に出すのは得策とはいえません。そもそも、付加価値を創造するためには人のためになにかをしなければならない以上、人の意思を全く無視してお金を得ることはできません。稼げるようになるには、人の気持ちやニーズを十分に理解しなければならないのです。

お金を稼ぐには、社会貢献が必要不可欠です。

ボランティアは社会貢献か?

ボランティアという行為は、身も蓋もない味方をすれば、本来はお金を貰ってすべきことをただでやる行為のことです。やられた方は喜ぶかもしれませんが、経済的に見ればあまり望ましいことではありません。

サービスというのは基本的には対価を支払って受けるべきですし、何でもかんでもただでやってしまったらGDPは増えません。GDPが増えないとういことは所得が増えないということであり、日本経済の停滞をもたらします。

きっちりと社会に貢献したいと考えるならば、対価を受け取るべきです。対価を支払えないような人には、福祉サービスの利用をすすめるべきです。