日本のお金の人物(肖像画)の変遷と人選の仕組み

皆さんが毎日のように触れているお札(紙幣)には、歴史上の人物の肖像画が掲載されています。

現在は1万円札に福沢諭吉、5000円札に樋口一葉、2000円札に紫式部、1000円札に野口英世がそれぞれ採用されていますが、以前は別の人物が採用されていました。今回は紙幣の肖像画の変遷と、人選の仕組みについて解説していきたいと思います。

過去に発行された日本銀行券は全部で14種類

明治時代以降に発行された紙幣(日本銀行券)は全部で14種類あります。すなわち

  • 1万円紙幣
  • 5000円紙幣
  • 2000円紙幣
  • 1000円紙幣
  • 500円紙幣
  • 200円紙幣
  • 100円紙幣
  • 50円紙幣
  • 20円紙幣
  • 10円紙幣
  • 5円紙幣
  • 1円紙幣
  • 10銭紙幣
  • 5銭紙幣

です。50銭紙幣という紙幣もあったのですが、これは日本銀行券ではなく政府紙幣であるため今回は除外します。

紙幣の肖像画の人物は財務省と日本銀行と国立印刷局が決める

肖像画を始めとするお札の様式は、財務省と日本銀行、国立印刷局が協議して決めます。最終的な判断は財務大臣が行います。

肖像の選出基準は「精密な画像が残っているかどうか」

肖像の選出に特別な制約などはありませんが、おおむね

  • 日本国民が世界に誇れる人物である
  • 教科書に載っているなど、広く知られている
  • 精密な肖像画が残っている

という3つの条件を満たす人が選ばれます。精密な肖像画が必要な理由は、精密な画像があったほうが偽造を防ぎやすくなるためです。

そのため、最近は本人の写真が残っている近代以降の人物から選ばれることが大半です。かつては聖徳太子や藤原鎌足、和気清麻呂などが選ばれたこともあったのですが、当然彼らの写真は残っていないため、今後彼らの時代の人物が選ばれる可能性は高くありません。

肖像は右側に置かなければならないという決まりはない

現在、日本で流通している紙幣はどれも向かって右側に肖像が描かれていますが、基本的に右側に配置しているだけであり、右側に配置しなければならないというルールがあるわけではありません。大正時代に発行された10円札は向かって左側に和気清麻呂が描かれています。

紙幣の肖像になった17人

過去に日本銀行券に肖像画として採用されたことがある人物は以下の17人です。

  • 神功皇后(じんぐうこうごう)
  • 板垣退助(いたがきたいすけ)
  • 菅原道真(すがわらのみちざね)
  • 和気清麻呂(わけのきよまろ)
  • 武内宿禰(たけのうちのすくね)
  • 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
  • 聖徳太子(しょうとくたいし)
  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 二宮尊徳(にのみやそんとく)
  • 岩倉具視(いわくらともみ)
  • 高橋是清(たかはしこれきよ)
  • 伊藤博文(いとうひろぶみ)
  • 福沢諭吉(ふくざわゆきち)
  • 新渡戸稲造(にとべいなぞう)
  • 夏目漱石(なつめそうせき)
  • 野口英世(のぐちひでよ)
  • 樋口一葉(ひぐちいちよう)

神功皇后

神功皇后は、西暦200年~250年頃の人物です。戦前は実在する人物として考えられていましたが、現在は非実在説と実在説が混在しています。

1881年に1円札の肖像画として採用され、1889年まで使われていました。当初、明治政府は明治通宝という肖像画の入っていない紙幣を発行していたのですが、損傷しやすく偽造も多発したことから、肖像画入りの紙幣を採用したといういきさつがあります。当時の最高の技術を駆使されて制作されたものであり、神郷天皇の肖像画は創作されたものとなっています。

板垣退助

板垣退助は江戸時代から大正時代にかけて活躍した武士、政治家です。自由民権運動の主導者として広く知られた存在で、国民からも圧倒的な支持を受けた人物でした。

明治新政府側の立場の人間でありながら、明治維新後すぐに旧幕府側の名誉回復にも尽力するなど、バランス感覚に優れた人物であり、明治時代以降は自由民権運動を推進。遊説中に暴漢に襲われ「板垣死すとも自由をしせず」という発言を残しましたが、このときには負傷したのみで生き残っています。

この時の犯人である相原尚褧は無期懲役の判決を受けたものの、板垣退助は自ら明治天皇に特赦嘆願書を提出。相原は特赦となり、板垣に謝罪しました。板垣退助の器の大きさというものがわかるエピソードですね。

帝国議会解説以降、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣しますが、間もなく総辞職し政界を引退。1919年に満82歳で死去しました。

これらの圧倒的な功績と任期から、死後わずか30年の1948年に50銭札の肖像画として採用されたほか、1953年には100円札の肖像画としても採用されています。特に100円札は1974年まで20年以上に渡り長く紙幣として認められていました。(実際に広く使われていたのは100円硬貨が登場する1957年の少し後までですが)。

菅原道真

菅原道真は平安時代の貴族、学者、政治家です。宇多天皇に重用された優秀な政治家で、一時期は右大臣に上り詰めましたが、その後左大臣の藤原時平と対立します。右大臣と左大臣はともに朝廷の要職で、現代に当てはめれば右大臣が内閣総理大臣、右大臣が副総理みたいなものです(実際には結構違うのですが……)。

時平は大納言・源光とともに偽証で醍醐天皇を欺き、それを鵜呑みにした醍醐天皇は菅原道真を大宰府に左遷します。

失意の菅原道真は2年後に57歳で病死、藤原時平は政権を掌握して我が世の春到来……とおもいきや、こちらも909年に39歳という若さで死亡します。

さらに、それから4年後の913年にはもう一人の首謀者である源光が借りの最中に泥沼で溺死。醍醐天皇の皇子である保明親王やその息子の慶頼王が相次いで病死、さらには清涼殿が落雷で炎上と、天変地異がこれでもかとばかりに続きます。

このことについて当時は菅原道真の怨霊による祟ではないかという噂が立ちます、朝廷は京都に北野天満宮を建立して道真の祟りを抑えようとし、やがて彼が優れた学者であったことから学問の神様として崇められるようになります。

1888年には5円札の肖像画として採用され、1899年まで使われました。

和気清麻呂

和気清麻呂は奈良時代~平安時代の貴族です。769年に道鏡(同時代の僧)の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という信託を受けたという報告を受け、称徳天皇は和気清麻呂を派遣します。

和気清麻呂はその信託が虚偽であることを上申したため、道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇の怒りを買って左遷、更には流罪とされます。

しかしその直後に称徳天皇が崩御、後ろ盾を失った道鏡も失脚したため、和気清麻呂は間もなく福井。その後も優れた政治手腕を発揮し、平安遷都の建設を進言します。

1890年に10円札の肖像画として採用されると、その後何度かデザインを変えながらも1946年まで10円札の肖像画として君臨し続けます。

武内宿禰

武内宿禰は古代日本の人物です。蘇我氏を筆頭とする後の豪族の祖ともされ、5代の天皇に仕えた伝説上の忠臣です。100年以上生きていることなどから実在性が疑われている部分もありますが、現時点では実在する可能性はかなり高いということになっています。

藤原鎌足

藤原鎌足は、安家時代の政治家です。後に数百年に渡って栄華を極めた藤原家のしそとも言える存在であり、大化の改新の中心人物でもあります。

大化の改新とは、藤原鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)が行った政治的な改革のことです。たまに蘇我入鹿の暗殺が大化の改新とされることが有りますが、この暗殺自体は大化の改新を始めるきっかけとなった事件で、乙巳の変と呼ばれ区別されています。

大化の改新では初めて年号が定められ(その年号が「大化」です)、私有地の保有が禁止され、農民には天皇(中央政府)から土地が無償で貸し出されることになりました。農民はその見返りとして、土地の面積に応じた年貢を支払うことになりました。また、日本を「国」「群」「里」に分けて、それぞれを管理する役人が指名されました。

1891年に100円札の肖像として採用され、1930年まで使われていたほか、1945年から約1年間は200円札の肖像としても使われました。

聖徳太子

聖徳太子は飛鳥時代の皇族・政治家です。当時は厩戸皇子と呼ばれており、聖徳太子という名前は死後に生前の事績への評価にもとづいて与えられたものです。

推古天皇のもとで蘇我馬子(蘇我入鹿の祖父)と協力して政治を行い、冠位十二階制度や十七条憲法と行った新たな制度を導入し、日本という国家の確立に努めました。

聖徳太子といえば1度に10人の話を聞き分けたという伝説も有名ですが、それは「日本書紀」「日本現報善悪霊異記」に限定された記載であり「上宮聖徳法王帝説」「聖徳太子伝暦」には10人ではなく8人の話を聞き分けたと記載されています。

一方、多くの人の話を聞きわけたというのは聖徳太子の聡明さに箔をつけるために高背の人々が後付で与えた設定であるとする説もあり、本当に1度に複数人の話を聞き分けられたのかどうかはわかりません。

かつては実在する人物として考えられていましたが、現在においては実在説と非実在説が混在しており、有力な証拠と思われるものは未だに現れていません。

それはともかく、日本史において人気がある人物であることは間違いなく、1930年に100円札の肖像として採用されると、その後1953年まで何度かのデザイン変更を経て採用され続けました。

1953年より発行された100円札では板垣退助が採用されたため一旦お役御免となったものの、1958年より発行されることとなった1万円札で復活。日本史史上初となる5桁円の紙幣として広く使われ、高度経済成長時代を支えました。

日本武尊

日本武尊は古代の日本の皇族です。日本書紀では「日本武尊」乞食では「倭健命」と表記されています。幼少期から怪力無双の人物で、兄をつまみ殺したり、妻が荒れ狂う波に身を投げて海の神の怒りを沈めたりと様々な伝説を残していますが、一般的には実在の人物とは考えられていないようです。

ただし、全く無から生まれた創作上のキャラクターというわけではなく、実在した数名の人物をモデルにしたと考えれています。

1945年に1000円札の肖像画として採用されると、1950年まで使われます。これ以降は紙幣に一切登場しておらず、肖像としては短命に終わっています。

二宮尊徳

二宮尊徳は江戸時代の思想家、農政家です。経世済民を目指して報徳思想を唱えた人物で、一般的には「二宮金治郎」として知られています。

現代で言うところの小田原市出身で、本来は裕福な過程の生まれだったのですが、父親が散財を重ねており、酒匂川の堤防決壊で自宅が濁流に流され、田畑も使えないものになってしまいます。数年掛けて田畑は復旧したものの借金を抱え、家計は一気に貧しくなります。

貧困の中で父が眼病を患い間もなく死亡、後を追うように母親も亡くなると、金治郎少年は二人の弟を母の実家に預け、金治郎少年は祖父のもとに身を寄せます。勉強家だった金治郎少年は吝嗇家の祖父に夜中の読書を「灯油の無駄」と罵られながらも勉強に励み、失われた家を修復し、田畑を買い戻して貸し出します。

また、武家奉公人としても働き、母親の実家が困窮すると資金援助をします。その後小田原藩家老の家政の立て直しを援助したり、下野国芳賀郡桜町の最高に寄与したりと精力的に活動します。

晩年も天保の大飢饉の際には真壁郡の領民を救済するなど活躍し、1856年に日光で亡くなります。幼少期から非常に勤勉で遭ったとされ、様々な逸話が残されていますが、彼自身は幼少期について語りたがらなかったため、残された電気の中には不正確なデータも多いと考えられます。

1946年に1円札の肖像として採用され、1958年まで使われていました。1958年に支払停止となって以降、1円札の新規発行は行われておらず、今後発行される見通しもないため、事実上最後の1円札の肖像となっています。

岩倉具視

岩倉具視は江戸時代から明治時代にかけて活躍した政治家です。公武合体(朝廷の伝統的権威と幕府の武を合体させ、幕藩体制を強化する運動)を唱えて王政復古を画策します。明治維新後は日本政府の首脳として活躍し、版籍奉還と廃藩置県を実施。

岩倉使節団のトップとして欧米ショックをめぐり、海外の技術に驚嘆。国内で自由民権運動の機運が高まったこともあり、伊藤博文を憲法調査のためにヨーロッパ各国に派遣しますが、間もなく咽頭がんで死去。58年の生涯に幕を閉じました。

1951年に500円札の肖像として採用されると、デザインを変えながらも長きに渡り流通。最後の方は殆ど使われることはなかったものの、1994年までは有効な紙幣として扱われました。

高橋是清

高橋是清は江戸時代から昭和初期にかけて活躍した政治家です。子供時代に勝海舟の息子とアメリカに留学するものの、ホームステイ先で騙され奴隷同然の生活を強いられるなど、波乱万丈の幼少期を過ごします。1年余りでなんとか帰国し、その後特許局の初代局長に就任します。

1913年には大蔵大臣として入閣、その後第20代内閣総理大臣まで上り詰めるものの、閣内の一致を測れず半年で対人します。1927年には政界を引退するものの、間もなく起きた昭和金融恐慌をきっかけに大蔵大臣に返り咲き。200円札の大量発行で金融恐慌を沈静化させ、その後発生した世界恐慌の際にもリフレ政策でいち早くデフレを脱却することに成功します。

しかし、デフレ脱出後の過度なインフレを抑えるために行った軍事予算の縮小が軍部の恨みを買い、1936年に二・二六事件で暗殺されます。当時としては先進的な積極財政政策を好んでおり、現代においても見習うべきとする意見は少なくありません。

1951年に50円札の肖像として採用されますが、1955年に50円硬貨が誕生したことにより急速に需要が減少。1958年に支払いが停止します。流通していた期間が短いため希少価値が高く、古銭として額面金額以上の値がつくことも少なくありません。

伊藤博文

伊藤博文は江戸時代から明治時代にかけて活躍した武士、政治家です。周防国(現在の山口県)の百姓の子として生まれますが、家が貧しかったため長州藩の水井武兵衛の養子となります。

江戸末期には吉田松陰の松下村塾に入門。イギリスに留学するなどして知見を広めます。当初は尊王攘夷派だったものの、この留学で日本との国力の差をまじまじと見せつけられたことから開国論に転身。明治維新後は明治政府のさまざまな要職を歴任し、改革を進めます。

1885年には内閣総理大臣として就任。1888年に対人しますが、翌1889年の黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布された際には立憲政治の重要性を各地で訴えます。1905年には韓国統監府が設置され、初代当館に任命されます。

当時文盲率が94%にとどまっていた韓国の教育に力を入れます。当初は韓国を保護国として扱い、日韓併合には懐疑的だったものの、朝鮮半島内で独立運動が起こるようになると考えを転換。しかし、これが元で朝鮮人の安重根に暗殺されます。

戦後の1963年に1000円札の肖像と指定作用されると、高度経済成長に伴う紙幣需要の増加も遭って広く流通。初期の気番号は黒い文字で表記されていたものの、数字が一巡したため好機に発行されたものは青い文字で表記されるようになりました。1986年に流通が停止し、役目を終えました。

福沢諭吉

福沢諭吉は江戸時代~明治時代にかけて活躍した思想家、教育者です。1835年に中津藩(現在の大分県中津市)下級藩士の次男として生まれると、5歳のうちから漢字と一刀流の手ほどきを受け始めます。

はじめは読書嫌いだったものの、世間体もあって15歳頃から勉学を始めると、メキメキと実力をつけ、様々な漢書を読み漁って知識を蓄えます。江戸時代末期には長崎に遊学して蘭学を学びます。

1859年には日米修好通商条約の批准交換の護衛をする咸臨丸の艦長である軍艦奉行・木村摂津守の従者として渡米、文化の違いに驚愕します。帰国後、今後は香港、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリンなどを訪れて、海外の文化、技術に触れます。

当時の日本人にとっては全く路の事柄であった銀行や徴兵制、選挙制度などに触れ、日本にも洋楽が必要であることを確信。自身の著書を通じて啓蒙活動を開始します。

明治維新後は蘭学塾を慶應義塾と名付けて教育活動に専念。国会開設運動の機運が高まった際には、イギリス流の憲法論を唱えます。

1872年には「学問のすすめ」を発表。欧米の近代的思想、民主主義の理念、市民国家の概念などをわかり易い言葉で解説したこの作品は当時の日本国民に広く受け入れられ、最終的には300万部以上売れたとされています。当時の日本の人口が約3000万人程度だったため、単純計算で10人に1人が買ったことになります。

ちなみに、この本の中で最も有名な文章は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」というものですが、実はこの言葉はアメリカ合衆国の独立宣言の翻案であるとされています。つまり、福沢諭吉が自ら考えだした言葉ではないのです。しかも、この言葉には続きがあり、それを翻訳すると

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別はない。しかし、世の人間世界には賢い人もいれば愚かな人もいる。貧乏な人もいれば金持ちな人もいる。身分が高い人も居れば低い人も居る。それは何故かと言うと、学ぶ人と学ばない人がいるからだ。学ぶ人は賢く豊かになり、学ばない人は愚かで貧しくなる(だから学ぶことが大切なのだ)」といった感じになります。

1984年に1万円札の肖像として採用されると、デザインを変えながらも現在に足るまで使われています。

新渡戸稲造

新渡戸稲造は江戸時代~昭和初期にかけて活躍した教育者、思想家、農学研究者です。国際連盟の事務次長を務めたこともあり、戦前の日本を代表する知識人の一人です。

明治維新後叔父の養子となって太田稲造を名乗るようになり、英語学校で英語を学びます。13歳で東京英語学校(現在の東京大学)に入学し、その後札幌農学校(現在の北海道大学)に入学します。

当初は教師と論争になり殴り合いに発展することもあって熱血漢でしたが、次第にキリスト教に傾倒し、学校内の喧嘩をキリストの教えに基づいて諌めるなど、次第に穏やかな人物へと変貌していきます。

その後眼病を患い、病気と勉強に対する焦りからうつ病を発症。母親の死で病状は悪化しますが、内村鑑三の激励によって立ち直ります。青年語は札幌農学校助教授に任命され、米国留学で農業と経済学を結びつけることの必要性を悟ります。

1900年に日本人が日本社会の枠の中でどのように生きたかをまとめた「武士道」を出版。初版は英語版で、日清戦争で勝利したことに伴い世界の日本に対する関心が高まっていたことも遭ってよく読まれました。

1920年には国際連盟事務次長に就任し、1926年まで努めます。1933年にカナダで開催された太平洋問題調査会会議に出席後、71歳で死去。出生地の盛岡市と、客死したビクトリア市はこれが元で姉妹都市となっています。

1984年に5000円札の肖像として採用され、2007年まで使われました。ちなみに、当時の大蔵省は女性を肖像として採用するつもりだったのですが、候補となった紫式部や清少納言は写真が存在しないため偽造リスクが高かったことから却下。

与謝野晶子は反戦歌を謳っていたことと、孫(元自民党議員でのちに内閣官房長官を努めた与謝野馨氏)が現職の国会議員だったことから却下。樋口一葉は短命がマイナスイメージだったことから却下。主だった候補が全滅した中で、女性教育に力を入れていた新渡戸稲造が採用されるに至りました。

夏目漱石

夏目漱石は明治時代から大正時代にかけて活躍した小説家、評論家、英文学者です。江戸時代最末期の1867年に江戸の裕福な家庭に生まれます。

もともとは金之助という名前で、1868年に養子に出されます。その後は養父の女性問題で実家に戻ったかと思えば実父と養父が対立したりとなにかとトラブルに巻き込まれます。

英語を学び始めたことで頭角を現し、私立学校で教師をするなどして活躍。学業にも励み、殆どの教科で主席となるなど、優れた頭脳を十分に発揮します。1889年には同窓生として正岡子規に出会い、彼の手がけた漢詩や俳句に漱石が漢文で書評を書いたことから友情が芽生えます。

1900年には帝国大学英文科に入学するものの、この時期に長兄、次兄、三兄とその妻と相次いで死別したことから、次第に神経衰弱に陥り始めます。

1893年には帝国大学を卒業し、東で英語教師になるも、神経衰弱に肺結核も加わり精神のバランスを乱します。1895年には辞職し、東京から愛媛尋常中学校に赴任します。

1896年には貴族院書記官長であった中根重一の長女・鏡子と結婚するものの、鏡子が流産などでヒステリーを発症するなど、夫婦生活はあまりうまく行かなかったようです。

一方で文壇では名声を得ており、1900年には文部省より英語留学を明示されます。しかし、英文学研究の違和感から神経衰弱に陥り始めます。文部省は漱石に帰国を命じます。漱石は教師として復帰するものの、再び神経衰弱となります。

1904年には高浜虚子に進められ、現在も名作として名高い「吾輩は猫である」を執筆。1907年には教職を辞し、朝日新聞社に入社。本格的に職業作家として歩み始めます。相変わらず神経衰弱に悩まされるものの作品は好評で、「三四郎」「それから」などを発表します。

しかし、「門」を執筆中に胃潰瘍で入院、療養先の伊豆で800gの大出血を起こし、生死の間をさまよいます。容態は一旦落ち着くものの、今度は慢性的な病気に苦しめられ、痔の手術なども重なり、病気と隣合わせの人生を歩みます。

1915年、京都旅行中二5度目の胃潰瘍に倒れ、1916年には糖尿病を発症。同年12月に内出血で死去します。脳と胃は解剖後東京大学に寄贈され、脳は現在も同大学医学部に保管されています。

1984年に1000円札の肖像として採用されると、2007年まで使用されます。

野口英世

野口英世は明治時代から昭和初期にかけて活躍した細菌学者です。一般的には黄熱病や梅毒などの研究で知られています。福島県の生まれで、清作と名付けられます。1歳のときに囲炉裏に落ちて大やけどを負う悲劇に見舞われ、このことから母親には農作業ではなく学問で身を立てるように諭されます。

教育者の小林栄に成績を認められて猪苗代高等小学校に入学すると、学校で左手を直す募金活動が行われます。その結果手術が行われ、不完全ながらもある程度左手の自由が回復。このことがきっかけで、清作少年は医師の道を志すようになります。

高等小学校を卒業後は、自身の手術を担当した渡部鼎の医院で住み込みで働きながら医学を学び、医学院講師の血脇守之助と知り合います。1896年に小林から40円を借りて上京。1897年には血脇のはからいで左手の無償再手術を受け、その結果左手の機能がさらに回復。臨床試験には必須だった打診ができるようになります。

21歳で医師免許を取得するものの開業資金が用意できず、左手を見せるのも嫌だということで、開業医は諦めて学者への道を歩むことを決意。伝染病研究所・横浜長浜検疫所を経て渡米、ペンシルバニア大、ロックフェラー医学研究所と渡り歩きます。

伝染病研究所時代には、読んだ小説に自分によく似た自堕落で借金を重ねる「野々口精作」なる人物が現れ、モデルであるという邪智をされることを懸念して英世と改名します。

晩年は当時ワクチンのなかった黄熱病の原理を探るためエクアドルに派遣されます。その後も研究を重ねるものの、1928年5月13日に自ら黄熱病に感染し、5月21日に死去。何度かノーベル賞候補にも上がりましたが、結局受賞することはなくその生涯を閉じました。

2004年に1000円札の肖像として採用され、現在も使われています。

樋口一葉

樋口一葉は明治時代に活躍した小説家です。当時の中流家庭に育ち、6歳で滝沢馬琴の代表作「南総里見八犬伝」を読破します。父の則義に文才を認められ、和歌を習わされ、歌人・中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。和歌や古典文学などを学び、頭角を現します。

1894年12月には「大つごもり」を文学界に発表、1895年には「たけくらべ」を発表します。これら作品は森鴎外、幸田露伴などに高く評価されますが、若くして当時治療法のなかった肺結核に罹患してしまいます。1896年11月23日に死去。24歳の生涯に幕を閉じました。

2004年に5000円札に採用され、現在も使われています。女性の採用は1881年に採用された神功皇后以来123年ぶり2度目の快挙で、実在することが確かな女性としては初めてです。