芸能人の中には数億円単位の借金をする人がいます。そしてなんとそれを完済してしまう人が少なくありません。
あまりにも規模が多すぎて我々にはついていけない面もありますが、一体彼らはなぜあんなにも多額の借金をしてしまうのでしょうか。そしてなぜそれを返すことが出来るのでしょうか。
お金持ちほどたくさん借金ができる
まず、芸能人はなぜあんなに多額の借金をできるのか、という問に対しての答えは非常にシンプルで、お金持ちほどたくさん借金ができるからです。
借金の審査でも特に重視されるのが収入の安定性と高さです。借金は貧しい人のほうがニーズが高い金融商品ですが、金融機関としては万が一のことがあると困るので、なるべく貧しい人ではなくお金持ちの人に貸したいものなのです。
無論芸能人と言ってもそのランクは様々ですが、トップクラスに人気と実力のある芸能人とも慣れば年収が1億円を超えることも珍しくありません。そのような高額所得者ならば、かなりの額を金融機関から借り入れることが可能です。
そんなに所得があるのならば金融機関から借金なんかしなくても十分本業で食べていけるだろうと思われるかもしれませんが、芸能人というのは非常に不安定な職業です。
今は1億円プレーヤーでも、来年には全く稼げなくなっているかもしれません。そうした不安から、芸能とは別のビジネスを初めて、2つめの収入源を持とうとする芸能人は少なくないのです。飲食業に進出する芸能人が多いのはそのためです。
そして、ビジネスを起こすには多額の資金が必要です。いくら稼いでいる芸能人といえども、ビジネスの軍資金を全て現金で用意するのは簡単なことではありません。
となれば、必然的に金融機関で借金をするしかありません。かくして多額の借金を抱える芸能人ができあがるのです。
また、人気芸能人ともなればお金目当てに様々な人がいいよってきます。お金を貸してほしいと頼んできたり、連帯保証人になってくれと頼んできたり、あるいは事業や投資の話を持ち込んできたり……。
こうした周囲の人間の言われるがままに行動してしまい、多額の借金を抱える芸能人も少なくありません。芸能人に限った話ではありませんが、お金を持っている人のもとにはそのお金を狙うハエのような人間が集まってくるものなのです。
芸能人の借金列伝
ここからは、実際に多額の借金を抱えた芸能人を見ていきましょう。
バブルの申し子・千昌夫
芸能界で最も多くの借金を抱えたと言われているのが千昌夫さんです。千さんは20歳で「星影のワルツ」でヒットを飛ばし、その後アメリカ人女性と結婚、俳優としてのも人気を博し、ヒット曲も連発するなど、芸能人としては順風満帆の生活を送っていました。
芸能人として活躍する一方で、千さんは投資家としても活動を開始します。1970年に、仙台市内にある土地を4000万円で購入します。
当時は田舎の土地なんか買ってなに考えているんだ、と言われたものの、東北新幹線の計画もあり、2年後にはその土地が4億円まで値上がりします。
売却益は単純計算で3億6000万円、現在の貨幣価値に直すとなんと30億円以上です。これだけで一生働かずに食べていけそうですね。
その後千さんは1973年に不動産投資会社「アベインターナショナル」を設立。1980年台には本業である歌手業・俳優業をほとんど停止し、不動産投資に専念します。
かくしてときはバブル景気、不動産投資事業は凄まじい勢いで成長し、一時期は資産3500億円の長者にまで上り詰めます。
が、1991年にバブルは崩壊。それまで土地ころがしで多額の利益を得ていた不動産業者は軒並み事業から撤退してしまいます。千さんのアベインターナショナルも負債総額1034億円で経営破綻。
千さんはアベインターナショナルに個人保証を付けていたので、個人として約3000億円もの借金を背負うことになります。
額が大きすぎていまいちよくわかりませんが、3000億円というのは藤沢市(人口約41万人)の1年間の予算とほぼ一緒です。そして借金の金利は1000万円!寝て起きたら1000万円も借金が増えているという、わけの分からない自体に巻き込まれます。
3000億円も借金があったらお先真っ暗……と思いきや、千昌夫さんが借り入れていた金融機関の日本長期信用銀行(長銀)もバブルの影響で経営破綻してしまいます。その影響で長銀にも公的資金が注入され、借金は1000億円まで減ります。
その後、1000億円まで減った債務は個人再生で1億5000万円まで減らすことに成功。残った借金は各地のディナーショーやイベントなどで稼いだギャラで地道に返済し、2008年頃までに完済を果たしたそうです。
千さん自身は借金について取材は受けないとしており、本人の口からこのことが語られることはないようです。まあ、こんなに借金をしていたことをわざわざ掘り返されたがる人はいないでしょうね。
バブルでて痛い目にあった芸能人はたくさんいますが、千さんはその中でも別格です。都市部の市の予算並みに借金をする人はもう二度と出てこないでしょう(出てこないに越したことはありませんが……)。
約50億の借金を一括返済・小林旭
芸能界で2番めに借金をしたと言われているのが自動車ショー歌などのヒット曲でおなじみの小林旭さんです。その額は最も多かった時期で約50億円。千さんのせいでだいぶ少なく見えますが、よくよく考えるとこれも十分過ぎる額です。
小林旭さんが多額の負債を抱えた原因は一つではありません。まず、本業の映画事業が失敗します。その借金を返すために始めたゴルフ場経営にも失敗し、約14億円の借金を抱えます。
その後は本業で立て直しを図り、バブル景気時には志賀高原や沖縄でホテルを経営するに至るまで復活します。
しかし、そんな我が世の春もバブル崩壊とともにあっさり終了します。不動産事業からは撤退、あとに残ったのは50億円の借金。
それでも本人はめげることなく、それどころか生活レベルの質を落とすこともなく、自宅の豪邸も特注のロールスロイスも手放さずに借金を返済しはじめます。
借金が増えた後もヒット曲には恵まれ、2003年には46億円の残債を一括で返済。見事借金のない体になりました。
映画が大赤字・さだまさし
「関白宣言」「親父の一番長い日」などのヒット曲で有名なさだまさしさん。そんな彼が借金を背負った理由はなんと映画です。さださんは20代のころから自身のルーツに多大なる興味を持っており、それまでの印税収入2億円を資金に中国は長江で映画製作に乗り出しました。
が、当時長江の源流への立ち入りを禁止していた中国政府との交渉が難航し、撮影スケジュールは伸びます。
また、当初はテレビ用のビデオカメラで撮影していたものの、途中から映像をよりクリアなものにするために35mm映画フィルムでの撮影に変更するなどしたため、撮影費用が巨大化します。映画に携わる人が増えた影響で人件費は特に物凄い勢いで膨張します。
最終的に撮影された映画自体はそれなりにヒットしたのですが、それでも膨れすぎた制作費をカバーすることはできず、さださんは最終的に28億円(金利も含めると約35億円)の借金を背負うことになります。
その後さださんは一念発起して本業に専念。年に100回以上のコンサートを開催し、30年掛けて借金を返済します。2013年にはソロコンサート開催回数4000回という記録を打ち立て、歌手としての泊を付けます。
スキャンダルに塗れた君島明・十和子夫妻
夫婦で借金を背負うことになったのは、君島明・十和子夫妻。君島明さんは日本有数のデザイナーである君島一郎さんの息子です。
当時女優だった吉川十和子さんは君島明さんと1995年に婚約を発表、当時人気だった女優と有名デザイナーの息子の結婚ということで、当時のメディアは大いに賑わいました。
君島一郎さんのKIMIJIMAブランドは皇族もお召しになるほどの一流ブランドであり、この結婚によってブランドの地位は益々高まる……かと思われましたが、その後事態は意外な方向に進展します。
マスコミの手によって、君島明さんが君島一郎さんの本妻である君島由紀子さんの子供ではなかった(つまり婚外子だった)と報じたのです。
さらに君島明さんと風俗関係の女性との間に隠し子がいたことも発覚。吉川十和子さんはそれでも結婚したものの、1996年には君島一郎さんが死去。その後その愛人と息子を名乗るものたちが現れ、相続が大いに揉めます。
その一部始終が連日ワイドショーで面白おかしく報道されたため、KIMIJIMAブランドは大いに失墜。ブティックは2000年代までに全て閉店となってしまい、推定40億円もの借金を背負う羽目になってしまいました。
そんな君島夫妻ですが、最近は夫婦でコスメブランドの「チェリーチェトワコ」を展開しています。ブランドのトップを務めているのは明さんですが、実質的には十和子さんが全面に出てブランドのイメージ工場に努めています。
現在は芸能界を引退している十和子さんですが、たまに通販番組に出演して自身のブランド商品を宣伝することもあります。現在はまだ借金返済中ですが、一時期と比べるとだいぶその額は少なくなったとか。
悲運の女優・坂口良子
本人にはほぼ責任がないにも関わらず、40億円以上もの借金を背負わせられてしまったのが坂口良子さんです。
芸能コンテストで優勝して芸能界入りを果たした坂口良子さんは、脚本家の石井ふく子さんの寵愛を受けて順調に芸能人としてステップアップしていき、1986年には不動産会社の役員と結婚します。
この役員男性は地上げの神様と呼ばれるほどの不動産業者だったものの、バブルの崩壊とともに転落・失脚。しかも坂口さんを勝手に連帯保証人にした上、預金も勝手に引き下ろすというどうしようもない人間でした。
それでも坂口さんは必死で働いて借金を返済し続け、完済します。1994年には全夫と離婚し、1998年に人の紹介でプロゴルファーの尾崎健夫と知り合い交際を開始します。長い事実婚状態が続いた後、2012年には正式に入籍し結婚。
しかし、この時点で彼女の体は癌に侵されており、2013年3月に57歳でこの世を去ります。
借金の額もBIG・矢沢永吉
ロックスターとして名高い矢沢永吉さんも、過去に30億円以上の借金を背負ったことがあります。そして驚いたことに、その借金をわずか6年余りで完済しています。
矢沢さんはかねてからオーストラリアのゴールドコーストに興味を持っており、いつかはそこに音楽学校を作りたいと考えていました。自身は本業もあり、投資に関する知識もなかったことから、信頼できる二人の部下に事業を任せます。
が、この事業は意外な形で頓挫します。矢沢さんが信頼できると見込んだ部下二人は、別の事業に投資して大失敗。
音楽学校を建てるために買った用地は差し押さえに逢い、矢沢さんは35億円あまりの借金を背負う子になります。これはオーストラリア史上2番目に大きい被害金額だったとのことです。
当初は信頼していた人間に裏切られたことから自暴自棄になりかけていた矢沢さんでしたが、周囲のサポートもあって自ら借金を返済していくことを決意。
ライブのみならず、テレビCMや映画などにも出演して働きまくります。莫大な借金をわずか6年余りで返済、現在でもコンサートは常に人で溢れかえっていて、グッズ収入やCM収入も堅調とのことです。
そして借金完済後は東京都内にスタジオを兼ねたビルを建設。見事に芸能人として復活を果たしました。
借金人生・加山雄三
1960年にデビューした加山雄三さん。1970年台には叔父が経営する茅ヶ崎のホテルが経営破綻し、20億以上の借金を背負います。この借金はキャバレー周りなどで40代までに完済するのですが、その後それ以上の借金を背負うことになります。
1987年、「私をスキーに連れてって」というタイトルの映画が公開され、世がスキーブームに包まれます。それを見た加山さんはスキーブームの1990年に「加山スキー場」を開業。当時はバブルがまだ続いていたことも合って、多くのお客さんが来場します。
が、翌年にバブルはあっけなく崩壊。もともと立地が悪かったことも手伝い、予想ほど利用客が伸びず、資金難からコースが短縮されるなど、集客に苦労しました。
その後も20年以上に渡り経営を続けてきましたが、加山さんいわく「黒字だった年は一度もない」ほど経営は火の車だったとか。最終的な借金の額は数十億円とも、100億円とも言われています。
が、ここでめげないのが加山さん。ひたすら働いて、なんとこの借金を2014年に完済してしまいます。現在は以前手放してしまった船を取り戻して遊んでいるようです。
加山さんいわく「莫大な借金が人生のモチベーションに繋がった」そうですが、我々凡人にはちょっと理解しがたい感性ですね。
借金王から議員へ・アントニオ猪木
現在は日本を元気にする回の議員として活動しているアントニオ猪木さん。何かとお金に関するトラブルが多い猪木さんですが、彼も20億円以上の借金を背負ったことがあります。
猪木さんが最も多額の借金を背負ったのはモハメド・アリとの戦いです。
当時人気絶頂だったプロレスラーのアントニオ猪木さんと、同じく頂点を極めたモハメド・アリさんの対戦は多くの注目を集めていたものの、蓋を開ければ猪木さんがリングに寝転がってひたすら蹴りを出すだけという内容に終わり、世紀の凡戦と称されました。
このような戦いになってしまった理由として、ルールが圧倒的に猪木さん側にとって不利だった事が挙げられます。殆どのプロレス技が反則扱いとなるルールだったため、猪木さんとしてはカツためにはこうする以外にはなかったのです。
まあ何はともあれ世紀の凡戦に終わったこの試合にアリさんは18億円を要求しており、しかもこの試合のせいで猪木さんの評判が大きく落ちてしまったため、一時期はかなりお金に苦労したようです。
それでもアリさんと戦ったという経歴を得られたのは大きく、一時的に落ち込んでしまった人気は直ぐに回復。これでめでたく借金も返済できる……
かと思いきや、アントンハイセル(猪木さんが起こしたバイオビジネスの会社)に新日本プロレスの売上をつぎ込み続けていたことが発覚。猪木さんは新日本プロレスを解任され、またも借金を背負うことになります。
結局その借金はテレビ朝日に放送権を担保に肩代わりしてもらったり、パチンコ屋スロットのライセンス契約を結んだりして完済します。
その後はプロレス業の表舞台からは身を引き、国会に活躍の場を移します。まめちゃくちゃとしか言いようがない人生ですが、それでも猪木さんが凄いと思わされてしまうのがプロレスの魔性なのかもしれません。
若竹が大コケ・五代目三遊亭圓楽
笑点の司会を長きに渡り勤めていた先代(五代目)の三遊亭圓楽師匠さん。笑点メンバーにもたびたびネタにされていた園楽さんの借金は寄席「若竹」によるものでした。
関東にはもともと落語協会と落語芸術協会という団体がありました。しかし、1978年に落語協会の会長だった柳家小さん師匠が多数の二つ目の落語家を真打ちに昇進させると、その方針に園楽師匠の師匠である三遊亭圓生師匠が反発し、落語三遊協会を立ち上げます。
小さん師匠は「真打ちはスタート、そこから売れるかどうかは本人次第」という考えを持っていたのに対して、圓生師匠は「真打ちはゴール」という考え方を持っていたため、このような対立が生まれたとされています。
さて、新団体設立を果たした圓生師匠ですが、落語三遊協会には思ったほど人が集まらず、圓生師匠は1979年に死去。もともと勢力的に弱い立場にあった落語三遊協会は空中分解を越し、所属していた落語家の殆どが落語協会に復帰します。
しかし、そんな中でも三遊亭圓楽師匠だけは落語協会への復帰を拒み、一門の弟子を引き連れて新団体大日本落語すみれ会を設立します(現在は円楽一門会と改名)。
しかし、大日本落語すみれ会は浅草演芸ホールなどの主要な会場が利用できないため、私財をなげうって借金を背負ってまで寄席若竹を解説します。
が、若竹はターミナル駅から遠く、立地条件に恵まれなかったうえ、園楽師匠自身は借金返済のためギャラの良いテレビ出演を優先させて若竹の高座を務められなくなり、また弟子たちも余興を優先させたため若竹に人が集まることはほとんどなく、わずか開業から4年で閉館。
この際に圓楽師匠のもとに残った借金は2億円とも、4億円とも言われています。それでも圓楽師匠は精力的な活動によって見事借金を全額返済。
その後圓楽師匠は2009年に逝去。円楽一門会の現在のトップは六代目三遊亭円楽師匠(元三遊亭楽太郎師匠)であり、一時期は桂歌丸師匠が会長の落語芸術協会との合流の話が持ち上がっていました。
しかし、落語芸術協会側合流に賛成したのが桂歌丸師匠と三遊亭小遊三師匠のみだったため、話は立ち消えとなりました。
なお、三遊亭圓楽師匠の弟子である三遊亭好楽師匠も「池之端しのぶ亭」という寄席を持っています。
グラビアの女王・小池栄子の紆余曲折
2000年代にグラビアアイドルとして一世を風靡した小池栄子さん。
ただ単にプロポーションに恵まれているだけではなく、バライティタレントとしても活躍しており、グラビア出身のタレントとしてはトップクラスの活躍をしている彼女も、実は数億円単位の借金に苦しめられたことがあります。
小池栄子さんはもともとグラビアアイドルではなくアイドルを死亡していたのですが、当時は当時はスレンダーな人が受けていた時代で、小池さんのようなグラマラスなタレントはあまり需要がない時期でした。
新人時代には目の前で「足が太すぎる」といったようなダメ出しをされたこともあり、一時期は引退を決意したこともありましたが、その後グラマラスな体型が男性層から評判を呼び、一躍トップアイドルの仲間入りを果たします。
受け答えの明晰さを買われてバラエティ番組にも進出、女優としても頭角を表し、さらには経済番組に漏れゆら~出演するなど芸能人としての地位を着々として築いていきます。
そして私生活では2007年にプロレスラーの坂田亘さんと結婚。仕事も私生活も順調で、まさに順風満帆……と思いきや、ここに思いがけない落とし穴がありました。
坂田さんの所属する「ハッスル」はレイザーラモンHGさんや和泉元彌さんなどの多数の芸能人も参戦した花のある団体だったのですが、放漫な経営がたたって資金難に陥ります。2009年にはインリン・オブ・ジョイトイさんから提訴され、資金難は表面化。
間もなく団体は解散し、所属していたレスラーは殆どが新団体に移籍するか、もしくはフリーになりました。しかし、そんな中でも坂田さんはハッスルに残留。しかし、資金難と合ってまともに試合もできず、飲食店経営に乗り出すも失敗。多額の借金を背負ってしまいます。
さらに2012年には税金の滞納が発覚し借金は増加。それでも夫婦仲は非常に良好で、小池さんの方は離婚する気もなく、安定している自分の稼ぎから借金を続けていました……
が、2015年には小池さんの所属するイエローキャブが倒産。大半のタレントは他の事務所に移籍しましたが、小池さんは独立の道を選びます。
独立は干されかねない危険な選択肢でしたが、結果として仕事は減るどころかむしろ増加。個人事務所なので事務所にお金を持っていかれることもなく、そのメリットを1人で享受できることになりました。
小池さんの年収は1億円以上とも言われており、単純計算でも数年で返済が終了するはずです。……それにしても、ここまでして離婚を選ばないのはなぜなのでしょうか。……愛?
一品房で人生大逆転・松居一代
今でこそ船越英一郎さんの妻にしてマツイ棒の発案者というイメージが強い松居一代さんですが、実は彼女はバツイチです。そして彼女の借金の原因となったのが、この前夫なのです。
松居一代さんが初めて結婚したのは1987年のこと。お相手はDCブランドの創業者。当時は随分な玉の輿婚と言われましたが、その状況は長男が生まれると一変します。
息子が重度のアトピーだったため、松居さんは様々な治療を試しますが、症状は一向に回復せずに苦しみます。さらに夫が女性問題を起こし、しかも勝手に連帯保証人にされていたことが発覚。離婚するものの2億円あまりの借金を背負う羽目になってしまいます。
さらに前夫と共同名義で購入していたマンションの自室の天井が抜けるというトラブルに巻き込まれます。そのせいで衣裳部屋の衣装は水浸にしてしまい、多額の損害を被った松居さんは。
これだけ不幸が続けばふさぎ込みそうなものですが、建設会社の清水建設と徹底的に戦う道を選びます。証拠集め、弁護士探しに奔走した松井さんは最終的に多額の慰謝料を勝ち取ります。
そして2001年には俳優の船越英一郎さんと結婚。特技の掃除を活かして開発した「マツイ棒」はメディアでも盛んに取り上げられ大ブレイク、さらにはプライパンや調理器具の開発も次々とヒットさせ、
多額の収入を得ます。2007年には全夫が作った2億円あまりの借金を見事完済、現在はアベノミクスにうまく乗っかった財テクで数億円の利益を得たという噂もあり、すっかりお金を上手に乗りこなせるようになりました。
セレブ転落からの復活・水沢アキ
20代の頃はグラビアイドルとして活躍し、人気が落ち着いてきたときにビジネスマンと結婚して海外で悠々自適な生活を送るという勝ち組の人生を送るはずだった水沢アキさんでしたが、その生活はある時期を境に一変してしまいます。
水沢アキさんは1973年に芸能界デビューを果たし、1975年にNHKの人気クイズ番組「連想ゲーム」のレギュラーを獲得。当時大人気だったこの番組で彼女は知性的な面をたびたび発揮、たちまち人気者となります。
一方でその美貌からグラビアタレントとしても活躍し、俳優の国広富之さんと交際を開始します。二人は結婚寸前まで行きますが、国広さんが女優赤木春恵さんの娘と交際していることが発覚し、すんでのところで婚約は解消されます。
そしてそれから数年後の1986年、今度は英会話教材会社や金融会社を複数経営する日本在住のアメリカ人と結婚します。今度こそ幸せを掴んだ……かと思いきや、7年後の1993年に2児を抱えて離婚。
当時水沢さんはマンションを8棟所有しており、その賃料収入で生活していたのですが、バブル崩壊で不動産価値は急落。最終的に約6億5000万円もの借金を背負ってしまう羽目になりました。
追いつめられた水沢さんは、人気タレントとしてのプライドをかなぐり捨て、ドケチママに変身。
子どもたちに試食コーナーで食事をさせ、テレビ局からグリーン車のチケットが送られてくると即換金して自分で自由席のチケットを買い、差額を徴収するなど徹底した節約ぶりで借金返済に挑みます。
更にはそれまでやったことがなかったヘアヌードにも挑戦、最初は毎月220万円だった返済も少しずつ減っていき、約11年掛けて6億5000万円の負債を解消しています。
しかしその代償は安いものではなく、子どもたちと一緒に過ごす時間を犠牲にしてきたことから親子間の間には深い確執があり、一時期は長女と絶縁状態にありました。現在は以前と比べれば中は修復されてきているものの、普通の親子とはまた違った関係が続いているとか。
まさかの洗脳の被害者に……辺見マリ
「経験」で大ブレイクを果たした辺見マリさんは、洗脳によって5億円もの金額を搾取されたことがあります。
辺見マリさんは1969年に「ダニエル・モナムール」でデビュー。当初はそれほど話題にはなりませんでしたが、セカンドシングル「経験」の「やめてぇ」と溜息混じりの歌い方が話題となり大ブレイクを果たします。
その後わずか1年余りで紅白歌合戦にも出場するなど順風満帆の歌謡人生を歩み始めましたが、人気絶頂期の1972年に突如西郷輝彦さんと結婚し、引退してしまいます。
このまま伝説的な歌手として人々の心に残るかと思いきや、性格の不一致から二人は1981年に離婚。慰謝料もなく、食い扶持もなかった辺見さんは芸能界に復帰します。
しかし彼女が引退してから9年、以前のような人気はもう無く、世間からも過去の人扱いされる始末。これからの不安を感じていた彼女のもとに、詐欺師が現れます。
当時の男性マネージャーから「ぼくの知り合いで神様と話せる人(K)がいるんですけど、会ってみませんか」と声をかけられた辺見さん。当初は何を言ってるんだ、と思った辺見さんですが、結果的にこのKに騙されお金を巻き上げられてしまいます。
Kは至って普通の要望の中年女性で、マネージャーの話とは裏腹に「神様と話せる」といった話を持ち出すこともありませんでした。
Kに親近感を覚えた辺見さんはKと度々会うようになり、しかもKは相談料を一切受け取らなかったことから、辺見さんは自ら相談料を渡します。この時点ですでに洗脳の落とし穴にハマりかけているのですが、当然辺見さん自身は気づいていません。
そしてKはある日、辺見さんに「このままでは目が見えなくなる」と忠告。さらに辺見さんしか知らない情報を次々と言い当てて見せます。
もちろんこれはKがただ単に事前に情報収集をしていた(情報源はおそらく男性マネージャー)だけなのですが、これに驚いた辺見さんはすっかりKを信じ込んでしまいます。
その後はKに「このままだと息子さんがグレる。10万円払えば救える」と言われるがままにお金を渡し続けます。
さらには別の相談者・AがKのもとで修行しているのを見た辺見さんは、自ら修行がしたいとKに志願。マンションを借りてAと同居し、生活費は全て辺見さん持ちとなります。
さらにKは辺見さんに芸能界引退を勧めます。これはもちろん辺見さんが社会とかかわることによって自身が洗脳されていることに気づくのを防ぐためです。こうしてますます洗脳にハマっていった辺見さんは、Kにわずか半年で1000万円ものお金を吸い取られてしまいます。
そしてある日、Kは姿を消してしまいます。これで辺見さんも流石に洗脳に気づく……かと思いきや、すがるものがなくなった辺見さんは大パニック。そんな彼女を次に食い物にしたのが、他ならぬAです。
Aは自分にも神様の声が聞えるようになったと言いだし、辺見さんはAを全面的に信頼。
Aの言われるがままに散財し、友人から借金を重ね、娘(辺見えみりさん)のギャラにまで手を出すという暴挙に出ます。それでも一向に彼女の洗脳が解けることはなく、芸能界復帰させられてウソまみれの自叙伝を書かされ、ヘアヌード写真集を発売させられます。
そんな彼女に転機がやってきます。2001年、Aの命令でダイエット教室を開くことになった辺見さん。Aはここらが潮時だと思ったのか、その資金(生徒が払った入会金)2000万円を持ち逃げしてしまいます。
この時、Aに対して初めて怒りを覚えた辺見さん。ようやく自分がAに何をされていたのかに気づきます。これまでAに搾取された金額は約4億9000万円、辺見さんの手許にはもちろん1円も残りませんでした。
警察に駆け込んだ辺見さんでしたが、ようやく洗脳が解け、仕事に励むことによって収入は安定。それでも借金の額は相当なもので、現在も娘に対するギャラ返済を続けているようです。
なんだか全体的な話があまりにも現実離れしすぎていて嘘っぽくも思えてしまうのですが、もちろん全部事実です。
不用意な一言で借金8000万円・石田純一
元プロゴルファー・東尾理子さんとの夫婦として有名な石田純一さん。最近は東京都知事選に出馬する意欲を見せながら途中であっさり撤退するなど迷走している感もありますが、れっきとした人気タレントであることは疑いようがありません。
しかし、そんな石田さんも過去には借金8000万円を背負っていた時期があるのです。
石田純一さんがデビューしたのは1979年のことです。当時は「石田純」という名前で活動していました。1984年の昼ドラ「夢追い旅行」で知名度を上げ、バブル全盛期の1988年には浅野温子さん・浅野ゆう子さんの「W浅野」が出演して話題となった「抱きしめたい」に出演。
トレンディドラマの申し子として大出世を果たし、年収約3億円の人気タレントになります。
その後1988年に女優・松原千明さんと2度目の結婚、私生活も順風満帆……かと思いきや、女性セブンに最初の結婚相手の女性との子供の存在をスクープされます(これがいしだ壱成さんです)。
更にその後1996年には、ファッションモデルの長谷川理恵さんとの8年間に渡る不倫が報じられます。レポーターの直撃に対して石田さんは「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある」と反論。
この不用意な発言が「不倫は文化」というフレーズとともに繰り返し報じられ、大バッシングにあいます。レギュラー番組も次々と失い、芸能界から完全に干されてしまった石田さん。
みるみるうちに周りから人が離れていってしまい、1999年には2度目の離婚。年収はほぼ0にまで落ち込み、それどころか借金8000万円を背負う羽目になってしまいます。
一時期の困窮ぶりは凄まじいもので、高級マンションを売ろうとするも引越し代が捻出できずにそれもできないと言った有様でした。これを気に石田さんは、従来のトレンディドラマに出演する二枚目路線から、イベント営業やらバラエティに積極的に出演する三枚目路線にシフト。
これが功を奏して再び表舞台に返ってきます。多額の借金を短期間で完済し、東尾理子さんと3度目の結婚。俳優としての稼ぎは大きく減ってしまったものの、バラエティタレントとして年収1億円を稼ぎ出すまでになりました。
一時期の落ちぶれっぷりは全く笑えないものでしたが、底から這い上がってくる姿勢は素晴らしいものです。
転落したエリート・林修
「今でしょ!」のフレーズでおなじみの林修さん。東大出身の超エリートであり、借金とは無縁の堅実な人生を送っていそうなイメージがありますが、実は彼の人生の裏にも借金がありました。
少額背時代から極めて頭が良かった林さん。超進学校の東海中学校に入学し、高校時代は全国模試で1位を獲得。東京大学法学部に入学し、大学生時代には家庭教師のアルバイトで月収50万円を荒稼ぎします。
そして大学卒業後はエリートのあこがれであった日本長期信用銀行(長銀)に就職、さあ輝かしい人生の始まりだ……と思いきや、なんとせっかく就職したにも関わらず、わずか5ヶ月で退社してしまいます。
希望する部署に配属されなかったことでモチベーションは大きく低下、さらに長銀がここから成長する姿も想像できなかったと林先生は述懐しています(事実、長銀は1998年に経営破綻しています)。
何はともあれ無職になってしまった林先生。自慢の頭脳を武器に会社を起こしたり、株取引に手を出したりするもことごとく失敗。林先生いわく無職期間の3年間は「空白の期間」とのことです。思い出したくないことなのかもしれませんね。
その後金策のために仕方なく予備校教師を始めるも、その指導力が評価され東進ハイスクールに正式採用。指導力が高いだけでなく、生徒を引きつける魅力も兼ね備えていたことから、たちまち有数の人気教師になります。
さらに2009年に出演したテレビCMの発言「今でしょ!」で大ブレイク。塾講師として年収3000万円、タレントとしても年収1億円を稼いでいるとされています。本人は明言していませんが、おそらく1800万円の借金は全て返し終わっているのでしょう。
自堕落な生活から債務整理で抜け出す・カンニング竹山
キレ芸で人気のカンニング竹山さん。当初は短命に終わると飲み方も強かったのですが、なかなかどうして今日もバラエティの最前線で活躍しています。
最近はお笑いのみならず俳優業にも進出し、インパクトの有る演技を見せてくれています。しかし、そんな彼にも借金にまみれた時代があったのです。
現在の姿からはあまり想像できませんが、実は竹山さんは結構なお坊ちゃんでした。父親は会社経営者、自宅には動物の毛皮、習い事はバイオリン。まさに絵に描いたようなお坊ちゃまでした。竹山さんの父親いわく「法律ギリギリが一番儲かる」のだとか。
しかし、9歳のときに父親が経営する会社が倒産すると生活は一変。借金取りに追われる生活となり、その生活を目の当たりにした竹山さんは「お金が関わると人間は変わる」ということを実感します。
その後バブルに乗って再び父親の羽振りがよくなったかと思いきや、数年後に再び経営が悪化。父親は間もなく死亡し、借金が数十億合ったことがわかります。この借金からは相続放棄でどうにか逃れますが、芸人デビュー後に相方の中島さんが交通事故を起こしてしまいます。
相方のために示談金を用意しようとした竹山さんは消費者金融からは初めての借金。これで意外に簡単に借りれたことに味をしめてしまい、バイトもサボるようになり、消費者金融からひたすら借金をする生活を続けます。
最初のうちは「これ返せるのか?」と不安をいだいていた竹山さんですが、借金の額が200万を超えるともはや考えても仕方ないと思うほどに金銭感覚が麻痺してしまったのだとか。
ついには闇金にまで手を出し、借金が450万円まで膨張(利息だけで月15万円)。当然、売れない芸人である竹山さんが返せる額ではなく、ライブ会場にまで取り立てが来る始末。
ついには彼女の定期預金を崩して返済に当ててもらいましたが、それでも罪悪感は感じなかったそうです。
しかし、彼女から別れ話をほのめかされ「私がいるとあなたがダメになるから距離をおきたい」と言われるとようやく会心。弁護士に頼らず、自分で債務整理を進めます。
最終的に借金は180万円まで圧縮、改心の効果もあってか間もなく仕事が増えるようになり、借金を完済します。
その後相方の中島さんは2004年に白血病で倒れてしまいますが、竹山さんは金銭面も含め様々な麺から相方をサポート。
2006年に中島さんが亡くなった後も「カンニング竹山」として活動しています。支えてくれた彼女とは2007年に結婚、今では健全な金銭感覚を取り戻せたようです。
借金を受け入れることから逆襲が始まる
これまで借金をして、それを返済してきた芸能人を多数紹介してきましたが、彼らに共通して言えるのは、借金を自分の過ちとして認めていることです。途中で現実逃避をすることは合っても、最終的には借金があることと素直に向き合って、それを返済しようとしています。
そして、もう一つ共通して言えるのが、彼らには多くのお金を稼ぐ能力があったということです。だからこそ殆どの人は自分で作った借金を完済しています。竹山さんも債務整理こそしているものの、残った借金はしっかりと返済しています。
現在借金で悩んでいる人は、まずそれと向き合うところから始めなければいけません。逃げ回っていても事態は全く改善しません。向き合って、受け入れた上で、自身の返済能力に応じて、返済を選ぶか、債務整理を選ぶかすれば良いのです。